金沢城 金沢のシンボル
金沢城の歴史
重要文化遺産の金沢城の歴史は、戦国時代から現代まで長く深い歴史をのこしてきました。天文15年(1546)金沢御堂が創建されたところから始まります。
空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(金沢御堂)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となりました。
戦国時代、一向一揆で本願寺門徒の拠点となった金沢坊を中心に寺内町が成立し、安土桃山時代に佐久間盛政が金沢坊を攻め落とした跡に尾山城を改築しました。それが後の金沢城です。
1583(天正11)年、前田利家が領有するようになると、キリシタン大名で縄張りの名手高山右近の設計で築城されます。
しかし、1602年落雷によって天守閣が焼失してしまいました。以後、天守閣は造られませんでした。江戸時代も加賀100万石と称される前田家の総本拠地として、城と町は大きく発展しますが、その後も火災で多くの建物が焼失。後述する石川門は再建されたものが現在残っています。
明治維新後、兵部省(翌年から陸軍省)の管轄となり、大半の建物を失い、さらに1949年(昭和24)には金沢大学の建物が城に置かれました。そのため、長らく金沢城は石川門と、手前にある兼六園年を観光できる程度でしたが、1995(平成7)年に金沢大学が移転したことから復元工事に着手。2001(平成13)には菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓、2011年(平成23)には河北門、2015年(平成27)には橋爪門と玉泉院丸庭園が復元。かつての威容の一部を取り戻しています。
金沢城の門
河北門
河北門は、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。「石川門(重要文化財)」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれていますが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦の大火の後、安永元年(1772年)に再建されました。
再建された河北門は、明治15年頃に無くなるまで金沢城の実質的な正門としての役割を果たしていました。約130年ぶりに甦った河北門は平成19年11月に着工し、平成22年4月まで約2年半の歳月をかけて完成しました。
石川門
重要文化財である石川門は1788年に再現されました。石川門の名前の由来は、石川郡の方を向いていたことから名付けられたとされています。金沢城の裏門として使われていた石川門は夜になるとライトアップされます。
橋爪門と橋爪門続櫓
お城にはそのお城の象徴となる天守閣が建てられているものです。しかし金沢城には天守閣がありません。そのため、二の丸が政治の中枢を担っていました。その二の丸の正門である橋爪門(はしづめもん)を見下ろす位置にあるのが、この橋爪門続櫓(はしづめもんつづきやぐら)です。物見櫓として機能していて、二の丸へ向かう人々を監視するための重要な役割を果たしていたそうです。3重3階構造になっていて、高さは14.69mあります。金沢城の復元整備事業の際、2001年に復元されました。
金沢城公園の自然
引用:http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/kanazawa_castle/plant.html
金沢城を取り囲む広々とした公園は別名「緑の心臓」と呼ばれています。心臓が体全体に血液を送るように動植物のほとんどが緑の心臓から街路樹、用水など種々の緑をたどって市内に供給されています。自然度が高い都市と呼ばれる金沢を支えているのです。
また、金沢市内を流れる犀川、浅野川の河岸段丘崖の緑は、郊外の山地や丘陵地と緑の心臓を結ぶ大動脈です。金沢城公園の植物は、現在548種以上ありますが、特に金沢大学fが設立してから50年間に200数種も増えました。植物植物の中には樹齢が300年以上ある巨樹もあり、それぞれの四季に金沢城公園内や金沢市を美しく彩ってくれます。
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きものレンタルwargo 金沢香林坊店
住所:石川県金沢市香林坊2-1-1 香林坊東急スクエアGF
基本情報
- 石川県金沢市 丸の内1番1号
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年中無休
3月1日~10月15日 7:00~18:00 (退園時間)
10月16日~2月末日 8:00~17:00 (退園時間)
入場料無料 - 076-234-3800
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路線バス
金沢駅より兼六園下下車 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
金沢駅より広坂下車 金沢城公園(玉泉院丸口)・兼六園(真弓坂口)
金沢駅より出羽町下車 兼六園(小立野口)
タクシー
金沢駅より 約10分
アクセスマップ
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