茶文化の歴史と縁深い大徳寺
大徳寺の歴史
大徳寺の開祖である「宗峰妙超」が1315年に洛北の紫野に小堂を建立し、これが大徳寺の起源と言われています。1325年に花園上皇が宗峰に帰依し、大徳寺を祈願所とする院宣を発した頃に本格的な寺院の形態になりました。その後は様々な身分の層に支持され、一休宗純などの名僧を輩出しました。侘び茶の創始者で有名な村田珠光が一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯と縁の深い寺院となっていき、千利休など多くの茶人が大徳寺と関係を持っています。
大徳寺の山門(三門)
1529年に下層のみが竣工し、60年ほど経って千利休によって上層も造られました。上層部分は「金毛閣」と称されています。この大徳寺三門は、三門の上に利休の像を安置したことから豊臣秀吉の怒りを買い、利休切腹の原因になったことでも知られています。三門の内部は公開されていませんが、外から仰ぐことはもちろん可能です。境内の拝観は自由です。
大徳寺の勅使門
大徳寺の勅使門は総門から西側に入った場所に建っていて、勅使門から池を挟んで山門・仏殿・法堂がほぼ一直線に並ぶ造りとなっています。慶長年間1596年~1614年に建造された門で、現在では桃山時代建築の重要文化財として指定されています。元々は南門として配置されていたものが、1640年頃に現在の位置に移築されたと言われています。2000年には屋根の修復なども行われており、古く年季を感じさせる佇まいや装飾等が現在でも綺麗に残されています。
大徳寺の法堂
大徳寺の法堂は、宗印禅者を檀越として修造されはじめましたが、応仁の乱ので焼失してしまいました。そのため、一休宗純が仏殿を再建してからは、それと兼用で使用されていました。しかし、江戸時代になり1636年(寛永13年)に小田原城主の稲葉正勝の遺志にもとづき、その子どもの正則が再建しました。場所は、大徳寺の仏殿の北に位置しています。天井には狩野探幽が35歳のときにえがいた雲龍図があり、国の重要文化財に指定されています。
大徳寺の方丈庭園
大徳寺の方丈前に広がる庭園には、南庭と東庭とがあります。南庭は、広い白砂敷きが特徴的となっています。小さな島を置いたり樹木を配しており、中央には彫刻が施された唐門があります。この唐門は、豊臣秀吉の時代につくられた聚楽第に建てられていたものとされており、国宝にも指定されています。東庭は、横に細長いかたちにそって、いろいろな石組みで構成されています。個の並びの構成には縁起の良い数字が用いられているとされます。むかしは鴨川や比叡山も借景としていた庭園です。
大徳寺と千利休
大徳寺は、多くの茶人が関係をもったことでも知られています。中でも、千利休の切腹の原因に関わっていることで有名です。どういうことかというと、始まりは千利休の大徳寺への援助でした。大徳寺三門は、下層のみ竣工した形で60年ほどを過ごし、利休の援助によって上層も造られ完成に至りました。大徳寺はその恩に報いるため、三門の上に利休の木造を祀ったのですが、これが豊臣秀吉の怒りを買いました。門を通ると利休の足下をくぐることになり、高貴な方の頭を踏みつける行為だとされたのです。本当にこのためであったか真偽は謎とされていますが、利休は切腹をさせられました。
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基本情報
- 京都府京都市北区紫野大徳寺町53
- 9:00~16:30
- 075-491-0019
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